魚と釣り方

先日、卒業論文の発表会が終わりました。自分としては何とか納得した形で発表を迎えられたのですが、やはり教授からの指摘は想定したものとは違い、鋭く、答えに窮してしまうことも多々ありました。やはり本質を見抜く力が高いのだなと痛感しました。

そんな形で、卒論は完結したのですが(勿論訂正はあるもののw)、ちょっと大学教授の指導法に違和感を覚えました。


魚を欲している人には、魚を与えるのではなく、釣り方を教えるべきだ、と良く言われています。昔はこのフレーズにピンとはきていなかったのですが、卒論を作っていく段階でそのことについて理解が深まりました。

ある分析結果や問題意識をゼミで発表したら、それに対して教授が考え、方法や結果を提示してしまうのです。例えば、それはこう言う意味だよな、この分析の結果を次回持ってきて、など教授主体で研究が進んでいくのです。今は様々な学生がそれぞれの価値観を持っていますからそのことについての善し悪しはそれぞれですが、分析手法や結果の解釈は自分で行いたい、と私は考えます。教授は生徒の間違ったベクトルの修正を行ってほしいのです。

そういった指導には弊害があります。例えば、生徒が自分自身の研究内容を十分に理解できてない点にあります。生徒に対して質問しても、生徒に答えてほしいのに回答はなぜか教授が代弁する。最終的には論文の構成を考えてもらった生徒もいます。

結果として、私の論文よりも内容は優れた作品になるかもしれません。ですが、その論文は意味があるのでしょうか。そもそも、学部生が論文を書く目的と言うのは、自分で問題を作り、自分で答える、と言った問題から答えを論理的に探究してくことが本質なのだと思います。論文それ自体の価値ではないはずです。

だからこそ、教授は生徒に対して「魚」を与えるのではなく、「釣り方」を教えるべきなのです。今は魚を釣れずに悔しい思いをするかもしれませんが、きっと将来、たくさんの魚を手に入れることができると考えます。